はじめに
親鸞聖人の和讃は、浄土和讃・高僧和讃・正像末和讃があります。若いころから思索なされていたと考えられますが、奥書等から考えますと聖人の晩年に作詩されたと思います。 正像末和讃は最晩年85歳ごろから作られたのでしょう。正像末和讃の中で一番親しまれている和讃は、『如来大悲の恩徳は』であります。

恩徳讃
真宗門徒は開法会の終わりに必ず唱和しますが、『身を粉にしても報ずべし。骨を砕きてもしゃすべし』をどのように頂くべきでしょうか?『べし』とありますから、誓いを新たにすることだと、 理解する趣もありますが、聖人のお気持ちはそうではないと思います。『古語辞典』によりますと、『べし』の言葉は、『推量の意を表す。だろう。するはずだ』とあり、他の和讃らと合わせていただきますと、『信心まことにうるひと』『他力の信心うるひと』にあっては、その信心の徳力として、おのずと『悌思報ずるおもい』に満たされることをうたわれているのでしょう。

信心によって得るご利益
親鸞聖人は、信心によって賜るご利益は、ソロパン勘定の信心ではなく『知恩報徳』の生活を賜る。それこそが信心のご利益なのです。 知恩のこころというのは、佛恩、善き人のご恩、両親や友人からのご恩ということでしょうが、つづまるところ、この私そのものをいただくということ。『私が私でよかった』と、受け取るとこ ろに、いろんなご恩を思う心が一つに結実し、私を起ち上がらせ堂々と歩み出させるのです。

浅田正作さんの詩
人生に 花ひらくとは この自分が 押しいただけたことです。(骨道を行く) 私たちは、多くのものの限りないはたらきかけをこの身に受けて、今こうしてあり、今こうして生きているのです。自分の思いを超えて不可思議の思徳を身に深く受けているのです。

大悲の心(艱難辛苦を玉にする)
大悲の心という言葉を聞きますと、それは、いかなる存在でも平等に受け止め、摂取される佛の御こころだと思います。そうにはちがいないのですが、いかなるものをもよしよしと全部そのまま受け入れて下さるものではありますまい。 現実の問題として、批判すべきことを批判することもなしに、ただ全てを受け入れてゆくことが、はたしてその人をいとおしむことになるのかどうか、今日の社会問題や、家庭問題とて思い知らされることであります。

志賀直哉の言葉
『人間は動物出身でありながら、よくぞ、これまで進歩したものだということは、驚嘆に値するが、限界を知らぬということが人聞の盲点となって、自らを滅ぼすようになるのではないか。 すべての動物中、飛び離れて賢い動物でありながら、結果から言うと、一番バカな動物だったという事になるのではないかと云う気がする。(「私の信条」)

『如来大悲』
大悲には、佛智による厳しい批判、否定の願いがあるのです。決して全てをうのみに受け入れる心ではありません。人間の愚かさ、その在り方を徹底して否定されるのです。『悲』とは、文字どおり、その在り方を心底悲しみ、否定される心であります。

人間の心は。
私たちは、その人のあり方を否定するときには、同時にその人の存在そのものを見限り、見放し、見捨ててしまいます。『あんな奴はもう駄目だ、全くどうしようもない奴だ』と。

しかし佛は
私の在り方を徹底的に否定し、その在り方を深く悲しみながら、しかもその存在を在りのままに受け止めていかれるのです。その在り方を否定しながら見捨てられない。そこに悲心の姿があるのです。

佛の心は(本願)
見捨てず・嫌わず・選ばず。の三つの心です。『如来大悲』は、私に向かって働き続けて下さる如来の願心に他ならないのです。


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